序章:沸騰する9回表
2025年6月19日、東京ドーム。9回表のマウンドに北海道日本ハムファイターズの北山亘基が向かう時、球場の空気は張り詰めた弦のように震えていた。スコアボードには「4-0」という数字が灯っている。しかし、この夜、スタンドの誰もが固唾をのんで見つめていたのは、得点差ではなかった。読売ジャイアンツのスコアボードに燦然と輝く、安打数を示す「0」の数字。それこそが、球場全体の期待と興奮、そして祈りを一身に集める源だった。
あとアウト3つ。史上91人目、パ・リーグでは36人目となる無安打無得点試合という偉業まで、北山はあと一歩のところに迫っていた。ベンチでは、この歴史的瞬間の舞台を整えた男、新庄剛志監督が、普段の位置から離れ、祈るように最前列からグラウンドを見つめていたという。冷静沈着な投球から「教授」の異名を持つ若き右腕と、予測不能な采配で常に球界を驚かせる指揮官。この夜の主役となった二人の物語は、すでに試合開始前から始まっていた。
この試合は、大胆不敵な戦略、それを完璧に遂行した選手の輝き、そして記録達成寸前の濃密な人間ドラマが凝縮された「新庄野球」の真髄そのものだった。そして、あと2人で途絶えた夢は、かえって記録以上に鮮烈な記憶を、そこにいた全ての人の胸に刻み込むことになったのである。
第一章:前日からの大変革、新庄監督の狙いとは
この劇的な夜の伏線は、前日の6月18日にあった。ファイターズはジャイアンツに1-2で惜敗。打線が沈黙し、好機を掴みきれないまま、悔しい敗戦を喫していた。この停滞感を打破すべく、新庄監督が翌19日に打った手は、マイナーチェンジではなかった。それは「大変革」と呼ぶにふさわしい、大胆な決断だった。
前日のスターティングメンバーから、実に7人を入れ替えるという荒療治。その変貌ぶりは、両日のオーダーを比較すれば一目瞭然である。
打順 | 6月18日 スターティングメンバー (対巨人) 6 | 6月19日 スターティングメンバー (対巨人) 8 |
1 | (中) 水谷 瞬 | (中) 五十幡 亮汰 |
2 | (三) 清宮 幸太郎 | (左) 矢澤 宏太 |
3 | (一) レイエス | (一) マルティネス |
4 | (左) 野村 佑希 | (三) 郡司 裕也 |
5 | (右) 万波 中正 | (捕) 田宮 裕涼 |
6 | (投) 山﨑 福也 | (右) 万波 中正 |
7 | (捕) 伏見 寅威 | (二) 石井 一成 |
8 | (二) 上川畑 大悟 | (遊) 上川畑 大悟 |
9 | (遊) 山縣 秀 | (投) 北山 亘基 |
前日のスタメンで名を連ねたのは、6番の万波中正と、8番でポジションを変えた上川畑大悟のみ。これは単なる気まぐれや「新庄劇場」と称されるパフォーマンスの一環ではなかった。その裏には、相手エースを攻略するための、緻密で計算され尽くした戦略が隠されていた。
この日のジャイアンツの先発は、リーグトップクラスの防御率を誇る山﨑伊織。前日のファイターズ打線は、長打力のある清宮、レイエス、野村を中軸に据えながらも、1点に抑え込まれた。そこで新庄監督は、アプローチを180度転換する。1番に俊足の五十幡亮汰、2番に同じく足を使える矢澤宏太を配置。そして3番には、助っ人ながら高いコンタクト能力と出塁率を誇るアリエル・マルティネスを起用した。
この狙いは明確だった。「足」と「揺さぶり」である。パワーでねじ伏せるのではなく、スピードと小技で相手バッテリーをかく乱し、山﨑伊織の投球リズムを序盤から崩壊させる。それは、ファイターズベンチの狙い通り、相手ベンチにも痛いほど伝わっていた。試合後、ジャイアンツの杉内俊哉投手チーフコーチは、この日のファイターズ打線について「これを狙ってんだろうなと…絞ってきてんだろうなっていうのは若干感じました」とコメントを残している。敵コーチが認めたこの一言こそ、新庄監督の采配が単なる奇策ではなく、相手の弱点を的確に突いた「戦術」であったことの何よりの証明である。それは、試合開始のサイレンと共に、見事に機能し始めることになる。
第二章:序盤の猛攻、新生打線が応えた千金の4得点
新庄監督が仕掛けた大胆な戦略は、グラウンド上で即座に結果として現れた。試合の均衡が破れたのは2回表。この回、先頭の田宮、続く万波が連続三振に倒れ、あっという間に2アウト。しかし、ここから新生打線が真価を発揮する。
7番の石井一成が粘ってファーストへの内野安打で出塁すると、続く8番の上川畑大悟が、山﨑伊織の投じたボールを完璧に捉えた。打球はライト線を破るタイムリーツーベースヒットとなり、ファイターズが貴重な先制点を挙げる。2アウトから、監督の意図を汲んだ選手たちが繋いで奪った1点。これは、この日の試合の流れを決定づける、非常に大きな意味を持つ得点だった。
そして圧巻だったのが3回表だ。この回の攻撃は、まさに新庄監督が描いた設計図そのものだった。
先頭は1番・五十幡。その俊足を生かしてファーストへの内野安打をもぎ取ると、すかさず二盗を成功させ、チャンスを拡大する。ここで2番・矢澤がライト前にクリーンヒットを放ち、無死一、三塁。完璧な「スピード野球」の展開に、東京ドームの雰囲気は一変した。
続く3番・マルティネスは、期待に応えてレフトへタイムリーヒットを放ち2点目。さらに4番・郡司が四球を選んで満塁とすると、5番・田宮がセンターへきっちりと犠牲フライを打ち上げ3点目。この際、相手センターの送球が乱れる間に走者が進塁し、なおもチャンスは続く。そしてとどめは、この日もスタメンに名を連ねた6番・万波。レフトへダメ押しとなるタイムリーヒットを放ち、スコアを4-0とした。
わずか2イニングで4得点。相手エースの山﨑伊織は、この日プロワーストとなる10安打を浴びて5回で降板。新庄監督の打順変更は、これ以上ない形で機能した。
しかし、この4点の価値は、単なるリード以上のものだった。それは、この日のもう一人の主役、北山亘基の右腕に「心の余裕」という最強の武器を授けたのである。野球において、0-0の緊迫した投手戦と、4-0のリードがある場面とでは、投手にかかるプレッシャーは天と地ほど違う。4点の援護を得たことで、北山は失投を恐れず、自分のボールを信じて大胆にストライクゾーンを攻めることが可能になった。四球やソロホームランを一つ浴びても試合の趨勢は変わらない。この心理的なアドバンテージこそが、彼を歴史的な快投へと導く最大の要因となった。新庄監督の攻撃的采配と、北山の圧巻の投球。この二つの物語は、決して並行して進んだのではなく、序盤の猛攻が快投を生むという、強い因果関係で結ばれていたのだ。
第三章:圧巻の9回122球。北山亘基、”教授”が支配した夜
打線が与えてくれた4点という大きな援護を背に、北山の投球は初回から冴え渡っていた。力強いストレートとキレのある変化球を低めに集め、ジャイアンツ打線に付け入る隙を一切与えない。アウトの山が、淡々と、しかし着実に築かれていく。一人、また一人と打者が打ち取られるたびに、東京ドームは静かな興奮に包まれていった。
快挙への期待が現実味を帯びてきたのは、試合が中盤を過ぎた頃だった。5回を終えても、ジャイアンツ打線から一人の走者も出していない。完全試合。野球ファンなら誰もが夢見る、究極の記録への期待が、ドーム内に充満し始める。
しかし、その夢は7回裏2アウトから潰える。3番・泉口友汰に対し、フルカウントから投じたボールが外れ、この日初めての四球を与えてしまう。球場からは大きなどよめきとため息が漏れたが、それでもまだ「無安打無得点試合」の可能性は残されている。北山は後続を断ち、大記録への挑戦を続けた。8回には、この日東京ドームでの通算1000試合出場を達成した大打者・坂本勇人が代打で登場するも、これをレフトフライに打ち取り、いよいよ運命の9回を迎える。
マウンドに上がった北山の表情は、いつもと変わらず冷静だった。だが、球場のボルテージは最高潮に達していた。先頭の8番・オコエ瑠偉との対戦は、11球にも及ぶ激闘となった。ファウルで粘られながらも、最後はセカンドフライに打ち取り、1アウト。偉業達成まで、あと2人。
そして、打席には9番の代打・大城卓三。カウント1-2と追い込んだ後の122球目だった。北山が投じた一球を、大城は完璧に捉えた。快音を残した打球は、ライトスタンドへ吸い込まれるソロホームラン。その瞬間、東京ドームを支配していた魔法が解けたかのように、大歓声と悲鳴が入り混じった声が響き渡った。
無安打無得点の夢は、あと2人というところで砕け散った。しかし、北山は崩れなかった。マウンドにコーチが駆け寄るも、続投を志願。後続の丸、中山をきっちりと打ち取り、4-1で試合終了のサイレンを聞いた。
統計 | 数値 |
投球回 (IP) | 9.0 |
投球数 (PC) | 122 |
被安打 (H) | 1 |
失点 (R) | 1 |
自責点 (ER) | 1 |
与四球 (BB) | 1 |
奪三振 (K) | 5 |
結果 | 勝利 (今季5勝目) |
この日の投球内容は、まさに圧巻の一言だった。この1失点完投勝利で、北山の防御率は1.15となり、両リーグトップに躍り出た。これは、この日の快投がフロックではなく、彼の今シーズンの充実ぶりを象徴するものであったことを示している。記録には残らなかったが、記憶には永遠に残る。そんな夜だった。
第四章:試合後の声:「悔しい」の裏にある成長と絆
偉業を目前で逃したヒーローと、その姿を見守った指揮官。試合後の二人の言葉は、この夜の物語をより一層深いものにした。
ヒーローインタビューに立った北山は、まず率直な心境を口にした。「最後、大城選手にいいバッティングされて、悔しいです」。その表情には、勝利の喜びよりも、大記録を逃した無念さが色濃く滲んでいた。しかし、彼の言葉はそれだけでは終わらない。
「いままで味わったことのない声援。凄く貴重な経験でした」。敵地でありながら、快挙を後押ししてくれた球場全体の雰囲気に感謝を述べた。そして、自身の未来を見据え、こう続けた。「達成できなかったってところはまだまだ勝負弱いところだと思うので…いつかこうやって達成できるように頑張りたいなと思ってます」。悔しさをバネに、さらなる高みを目指す。その成熟した姿勢は、彼が「教授」と呼ばれる所以を改めて示した。
一方、新庄監督の反応は、彼らしさに満ち溢れていた。試合後の第一声は「オーマイゴッシュ! 緊張したぁ。あーいってほしかったね。悔しい」。監督という立場を超え、一人の野球ファンとして、そして選手を思う「親心」から発せられたかのような、素直で人間味あふれる言葉だった。自らの緊張と悔しさを隠さず口にすることで、彼は北山の背負った重圧と悔恨を、共に分かち合ったのだ。
ここに、この試合がチームにもたらした真の価値が見えてくる。もし、無安打無得点が達成されていれば、それは北山個人の輝かしい記録として歴史に刻まれただろう。しかし、あと一歩で届かなかったからこそ、この経験はチーム全体の「共有体験」となった。9回裏の緊張感、期待、そして一瞬の落胆。その全てを選手、監督、ファンが一体となって味わった。
新庄監督が見せたのは、結果に対する批評や慰めではなかった。それは、選手の感情に寄り添う「共感」だった。監督も同じように「悔しい」と感じている。その事実が、選手の心をどれだけ救い、監督と選手の絆をどれほど強固にしたことだろうか。この「失敗」は、選手と指揮官の人間性と信頼関係を浮き彫りにし、チームの結束をより強固にするための、かけがえのない試練となったのである。
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